【後編】各時代の「建築様式」と「いけばな」の意外な関係

前編では、室町時代の書院造りで床の間が設けられ、

床の間の飾り物として、いけばなが成立し、

たて花から立華へ発展する歴史を見てきました。

 

一方、安土桃山時代になると、

千利休によって わび茶が大成され、

立華の流行と並行して、質素だが洗練された茶室にふさわしく、

シンプルでさりげなく飾る「なげいれ花」が

茶の湯の花として用いられるようになりました。

 

    茶の湯の花

 

<江戸時代/数寄屋造り

江戸時代初期からの茶の湯のブームに伴って(特に1690年は千利休 百回忌)、

建築様式も茶室の要素を取り入れた

数寄屋造り」(すきやづくり)に変化し、一般大衆の住宅にまで広がっていきます。

 

数寄屋造りでは、書院造りの格式や堅苦しい様式にとらわれず、

簡素な作りで、座敷の空間は小さくなりました。

見た目の豪華さよりも、内面を磨いて客人をもてなすという茶人の心得が影響しています。

利休の待庵はその原型とされ、桂離宮(新書院)などが代表建築物として有名です。

 

数寄屋造りでは、座敷が小さくなるとともに、床の間のスペースも小さくなりました

その小さなスペースには、立華のような派手で巨大な花は不釣り合いで、

茶の湯の花から独立した「抛入花(なげいればな)」が出現します。

 

さらに、町人たちによる新たな文化が育まれた江戸時代中期には、抛入花から発展し、

コンパクトな床の間とともに、当時流行していた儒学や五行説等による理論づけが行われ、

ここに「生花(セイカ)」が誕生します。     

 

立華は完成形に達する一方で形式が硬化し、この堅苦しさを脱皮し、

新しい様式が求められたことも、生花の発展の大きな要因です。


立華は安定した垂直体でしたが、

生花は不安定な傾斜体に変化し、

そこに柔軟で自由な美を表現しました。

(西洋のシンメトリーを基調とした美術や造作物とは対照的)

また、当時、一般まで浸透していた儒学(朱子学)の世界観も取り入れ、

天地人三才(てんちじんさんさい)という、

人と自然界の調和を求める精神などが反映されていることも、

花形に深みを持たせ、日本人独自の美を完成していきました。

 

そのため、立華が京都で武家・公家中心に流行したのに対し、

生花は江戸の一般大衆にまで広がり、町人の生活に根付き、

「しつけ」や「お稽古事」としても推奨されるようになります。


古流は江戸中期に、今井一志軒宗普によって創設され、

多流派化の流れの中で、生花の発展に大きく寄与しました。

 

     生花

 

明治維新以降、西洋文化の影響を受けて、

新しい造作的な盛花や自由花も登場し、現代に至っています。

 

古流松月会は、「生花」と「自由花」のお稽古がありますので、

興味のある方は、お気軽にご連絡ください。